〜壱 月の丘〜
夕暮れの紅い光が町を染め、黄昏が、闇が、街を、世界を支配し始める。
ヒトが生み出したわずかな光など、この闇の中では弱く無力で、ただ飲み込まれてゆくのみ。
ヒトが創り出す文明。それはヒトが生み出したヒトのためのモノ。
自然と言う大いなるモノの前には無力でしかないもの。
その街を一人の少年が駆けていた。ただただ、石畳を蹴る音だけが静かな町に木霊する。
秋の日はつるべ落とし。いつの頃からそう言われてきたのか、まさにぴったりの言葉だ。
まして、夏の感覚でいると日の落ちるのは本当に早く感じる。
遅刻した言い訳を考えながら少年は息を切らせて走っていった。
やがて石畳がなくなり、道は土のみになった。同時に道はゆるい登りになってきた。
疲れもあって少年の走る速さが遅くなったが、ようやく丘の頂上へと辿り着いた。
その丘からは街のほとんどが見渡せた。紅く染まる町並みが眼下に広がり、
紺色に染まりつつある空が一望できた。これで何もなけば、つかれた身体を草の上に横たえるのもいいだろう。
しかし、今はそんな事は出来なかった。何故なら、丘にいた先客の少女が口を開いたからだ。
「もぉおっ!!遅いわよ!!」
「こ、これでも一生…ハァ…懸…ハァ…命走ってきたんだよ…。
そ、それに…ゼェ…時間には間に合ったじゃない…ハア…」
かわいそうに、まだ少年の呼吸も整っていないのにいきなり怒鳴られては、
なんとか考えた言い訳も上手く口から出てこない。ただただ、謝るしか出来なかった。
「どうせ、夏の頃みたいに、まだ時間はあるーって、遊んでたんでしょ!?
もう秋なんだからそれぐらい考えなさいよ。まったく、深弥伽ってば、ホンット進歩が無いわねぇ…」
もう、こうなっては言い訳を言っても始まらない。彼女がそういう性格だという事はよく解っていた。
「ごめんマナ、こんど、おいしいアンミツご馳走するから、機嫌なおしてよ。
せっかくの日に怒ってちゃ台無しだよ。」
「食べ物に釣られる私じゃないわよ。…と言いたいところだけど、まあいいわ。
確かに今日怒ってちゃもったいないわ。」
ようやくマナは機嫌をなおしたようだ。
気が付くと辺りは暗くなっていた。
街も暗闇に溶け込み、わずかな光が闇に抵抗しているが、それもまた、暗闇に溶け込んでいる。
やがて月は二人の真上にさしかかろうとしていた。
「そろそろね。」
風が出てきた。丘の草や、マナの長い髪を揺らしている。
サワサワと、草の揺れる音と、スズムシの鳴き声が聞こえる。
「うん、そろそろだね。」
やがて、それらの音に混じって、木のきしむ音が聞こえてきた。
音が聞こえ出した頃だろうか、丘の上には空に続く階段が現れていた。
二人は階段を上がる。階段は途中までしかなかった。
もっとも、こんなところから伸びる階段の頂上がどこになるかなど、皆目見当もつかないが。
階段の(存在する)一番上まで来ると、ちょうどそこへ小舟がついた。舟は空を渡っていた。
さっきの木のきしむ音は、この舟の音だったようだ。
「こんばんはお二人さん。久しぶりだね。」
船頭が言った。フードを深く被っているので性別はおろか、年齢すらもわからない。
体格は小柄で、声は高くもなく、低くもなく。
「お久しぶり。よかったわ、今年も晴れて。」
「全くだよ。雲などに掛かられては道が分からなくなってしまうからねぇ。」
「ねえ、早く行こうよ。」
「おや、悪い、悪い。それじゃ乗っとくれ。」
二人が座るのを確認すると船頭は再び舟を漕ぎ始めた。
眼下の街をこんな時間に歩く人は少なく、また、大きな音を立てる剣呑な物もない。
ギイィ…、ギィ…。舟をこぐ音だけが辺りに響く。
やがて、辺りは紺色の空から黒い空へと変わっていった。
「あ、マナ、ほら。」
眼下に見えるのは街ではなく青く光る美しき地球であった。昏い空間にただ一つ青く光る地球。
それは、ほかの星とは比べ物にならない美しい色だった。
青い故郷を離れ、二人が今向かっているのは月。
「お疲れ様、到着ですよ。」
でこぼこの多い月の中でも最も広く平坦な場所へ舟は降り立った。
「う〜〜ん、ずっと座ってるのって退屈〜。」
船から下りるなりマナは大きく背伸びした。
ほんの1時間程度とは言え、じっとしているなぞ彼女には耐えられない物だった。
「ほらほら、深弥伽〜〜!!行くわよ〜!」
座っていた間の退屈を解消するかのようにマナは走り出した。
「あ、マナ、待ってよー。それにそんなに走ったら…」
さっき散々走った深弥伽にしてみればもう走りたくないのだが、
マナを放っておくとどこまで行くか分からない。それに注意していないときっと…。
「きゃあ!!」
ズテッ!!
ホラやっぱり、と深弥伽は心の中で呟いた。マナは転んでしまった様だ。
ただでさえ小石の多いここでは転びやすいのに、走ったりするから…。
「はい、立てる?」
起き上がりはしたものの、未だに涙目のマナに深弥伽は手を差し出した。
立ちあがり、パンパンと服のほこりを払い、ようやくマナは落ちついた。
「さ、行こう。」
二人は並んで月を歩き始めた。
月は儚くも蒼白い光を放っていた。
ある時生まれ、そして、自然のままに傷つきながらも、この宇宙をたゆたうもの。
その上を二人は歩いていた。今ここには二人とさっきの船頭しかいない。
二人が話をしなければ、本当の静寂と本当の闇のみが全てを支配する。
今日は中秋の名月。地球から見る月が最も美しく見える日。月は美しく輝く。
たとえ、そのように特別な日を設けずとも。時間は流れる。ヒトがそれに呼び名をつけずとも。
そんな呼び名など、ヒトが勝手につけたヒトのみが使う、そう呼ばれる物にとっては無関係な物。
「でもさ、そんな日を作ったって事はさ、その頃からヒトは月を綺麗だって思ってたんだろうね。
そう言う考え方は私、好きだな。」
「それに、僕達もその日に従ってこうやって月に来てるしね。」
「あら、それは違うわよ。私達はそんな風にこの日が呼ばれてなくても、月が一番綺麗な日には、こうして月に遊びに来てたわよ。」
「そうだね。」
やがて二人は、月の中の小高い丘にやってきた。ここからは月の地平線が見ることが出来た。
そして、上空に浮かぶ地球が。
どちらともなく腰を下ろし二人は青い宝石を見ていた。
赤や黄色に見える星は数あれど、青く輝く星はこの地球くらいだろう。
「綺麗だね…。」
「うん…。」
それは言葉に言い表す事も出来ないほど美しい光景だった。いや、この光景に言葉など必要ないのかもしれない。
「ねえ、深弥伽。」
「なに?」
「来年も…、ううん、再来年もその次も、ずっと先もこうやって一緒にいようね。」
そういって優しく微笑んだマナの顔はこれまでに見た事のないくらい綺麗で可愛かった。
マナってこんなにかわいかったっけ…。思わず深弥伽は顔を赤らめた。
…
二人は地球に戻ってきた。どれくらいの時間を過ごしたのか、月はまだ上空で輝いている。
もしかしたら、あの間は時間が流れていなかったのか。
「あーあ、やっぱりなんにもない月よりこっちのほうがいいわ。」
さっき月で見たマナは別人だったのだろうか。月の、人を魅せる不思議な魔力のせいだったのだろうか。マナはもういつもの調子だった。
「さっきのマナもいいけど、いつものマナのほうがマナらしくてイイや。」
「ん?なんか言った?」
「ううん、なんでもないよ。」
二人は丘を降りる。
「あ、そうそう、忘れてた。」
「?何を?」
「だから、アンミツご馳走してくれるって話。早速明日にでもつれてってね。」
「……うん、分かった。」
やっぱりおしとやかな、月にいたときのマナの方がいいかな。
月明かりのもと、深弥伽はそんな事を思ったりもした。
月は変わらず二人を、そして、二人のいる地球を照らしていた。
〜壱 月の丘〜 終わり
2001/10/17