〜六 桜桃の夢〜
暖かな陽気と共に訪れる春。
冬の終わり、春の訪れ。
桜は春を象徴するかのように咲き乱れる。
そして、その美しき桃色の花は、人々の心を安らげる。
桜は弔いの花でもある。
かつて、死した者を弔うべくたくさんの桜が植えられた事もあった。
桜の大木の根元には死者が眠ると言う。
桃色の咲き乱れし花々は慰霊の花。
風に乗り花びらたちが舞うは鎮魂の舞。
そして、それを見ゆるは、いつ朽ちたとも知れぬ屍ども。
春の霞みと相まって、桜並木に「桜雲」という言葉はぴったりだった。
桜は春そのもの。春の象徴。冬の終わり、春の訪れを告げるもの。
人はそんな春を見るために、春を確認するために、桜の元へ足を運ぶ。
そんな人に紛れていた、その人に目を惹かれたのは、しごく自然だっただろう。
桃色の雲の中、黒い着物で身を包み、佇む女性。女性は桜を見ている。
でも、なぜ、惹かれたのだろう。
桜の中の黒が不釣合いだから?それとも、逆に映えるから?
それとも、その女性の表情が悲痛だったから?
桜を見上げるその表情は桜を見るのはふさわしくない、
暗く、寂しげで、儚げな顔をしていた。
と、着物の女性が深弥伽に気付いた。
「こんにちは…。」と微笑む。
「こんにちは。きれいに咲いていますね…。」
深弥伽は挨拶を返したが、その微笑にちょっと、どきっとしてしまった。
「ええ、今年も綺麗ですわ…。ここは去年もきれいに咲きましたの。」
「そうなんですか。毎年見に来られるんですか?」
「ええ、去年もその前の年も…。」
そういって、女性はまた桜の方へ向いた。
「桜はこれまでも、そして、これからもこの場所でずっと咲きつづけるのです。
この場所で幾度となく…、しかし、それでも変わらず咲きつづけるのです。」
「もし…」
しばらく無言で、二人は桜を見ていたが、不意に女性が口を開いた。
「え?」
「もし、桜のように長い、永い生きる時間が許されるとしたら、あなたは何を望みますか?」
「僕が、望むもの、ですか?」
しばし深弥伽は、考えた。しかし、
「うーん、よく分からないです。」
「どうして?永い時間があればいろいろな事が出来るでしょう。
その時間の中で望むもの。何も無いのですか?」
「何も無い事はないです。ただ、僕はその時間を有意義に、幸せに過ごせられたら、それでいいかな、と思って。」
深弥伽は、女性の方を向いて言った。
「そうね、幸せに過ごせたらどれだけいいか…。でも、人の限りある生の中、そのほとんどは悲しみに支配される…。
それまでの幸せが大きければ大きいほど…。」
女性は目を伏せてしまった。
「ここで交わした約束。それが叶う事はもうない。でも、私は望んでしまう。あの人が帰ってくる事を…。」
このとき深弥伽にはようやく解った。あの黒い着物は喪服なのだ。
もう帰らぬ人のことを想い悲しみに暮れる故、その表情は悲しみしかないのだ。
「もう、あの人は帰ってこない。解っている。でも、期待してしまう。
いつか帰ってくるんじゃないか、待っていれば、いつか…。」
「だから…。」
何か女性の持つ空気が違う、深弥伽はそう感じた。
「だから、私は永遠を選んだ。永遠に、ここで待つ事が出来れば、いつかあの人に会える、そんな気がして…。」
まるで、辺りの空気が止まってしまったかのような、時折吹く風の音もなにも聞こえない。聞こえるのは女性の懺悔のような悲しい告白。
「でも、だめ。永い時間を待っても、悲しみが増すだけ。あの人のいない無意味な時間がさらに長くなっただけ…。」
ふうと、女性は溜息をついた。
「ごめんなさいね、こんなつまらない話をしてしまって。」
そう言って見せた表情は少し柔らかくなっていた。
「もしかしたら、私は誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。私の過ちを、間違いを。」
「誰しも、間違いはしてしまいます。悔やむ事ではないと思いますよ。」
深弥伽は言った。決して、慰めや同情の気持ちで言ったのではない。
もはや、彼女の過ちは正す事の出来ないものだ。それは、深弥伽にも解っていた。
「もう、十分に悔いたのなら、それ以上、悔やむ必要はないです。
今は辛いのでしょうけど、以前、幸せを感じられた時間があり、その時間を幸せだと、
今も感じられるのなら、もう、それでいいんじゃないでしょうか。」
それで、悲しみが少しでも癒せるのなら。
もう、これ以上、悲しい思い出を重ねる必要はない。
「ありがとう。あなたと話ができてよかったわ。」
「いえ。…そうだ。さっきの話。永い時間の中で望むもの。
それはきっと、その時間の中で見出せると思いますよ。」
「時間の中で…。」
「思い出もいいですけど、これから先のことも信じてみてはどうでしょう。
きっと見つかると思いますよ、あなたの望むもの。」
「これから先…。」
「ええ、これから先の希望。」
「ふふっ、そうね。」
女性はまた、顔を上げた。
「私はまだ、ここから離れられない。けど、いつかきっと…。」
「え?」
「ありがとう、本当に…。」
微笑む女性の顔はさっきまでより、心から微笑んだ貌をしていた。
と、突然風が吹いた。風は花びらを舞い上げる。
「うわっ?」
その風は深弥伽に向かって吹き荒れた。舞い上がる花びらに視界を遮られる。
そして、風が止んだとき、女性の姿はどこにもなかった。
咲いては、散り、時が巡ればまた咲いて…。幾度となく繰り返し、移りゆく世界。
その中でもいつまでも変わらぬもの。
そんな変わらぬ幸せを追い求めるのが、生きる物の望みなのだろうか。
〜六 桜桃の夢〜 終わり
2002/04/05