〜七 梅雨霖雨〜
天より落つる水の雫。
空をたゆたい、旅を続けるモノの落とす涙。
生き物の業、罪を見、流す涙。
なんて、生き物は悲しいものなのだろう。
その涙の雫は大地に生きるものを癒す。
恵み、安らぎを与え、慰め、癒す。
そして、大地を、大気を洗う。
汚れた空気を。
時には大地に這う要らない存在も…。
しかし、それは、極、稀な事。
雨は全ての生きるものにとって恵みとなる。
癒しとなる。
暗く、灰色の嫌な雲が低くたれこめる。
今にも雨が降りそうな天気だ。
ここ最近の空はずっとこんな調子だ。
それは、いまが梅雨だから。
ぱしゃっと足元の水溜りで勢いよく水を跳ね上げながら深弥伽は走っていた。
「やっぱり、今は出ない方がよかったかな…。」
多分、降りだす前にマナのところに着けるだろうという甘い考えで飛び出したのだった。
暗い空は人を鬱にする。
深弥伽も、あまり良い気分ではなかった。
それはマナも同じだった。ここ最近はずっとこんな天気である。外に出られないここ数日、
マナは非常に機嫌が悪かった。なるべくマナを待たせないようにと、
焦ったりで、うまく考えがまとまらない。だからか、こんな曇り空でも構わず飛び出したのだが…。
「あ…」
額に冷たい感触を感じ、深弥伽は考えがやはり甘かった事を実感した。
ポッ、ポッ…
額に感じたのは紛れも無い雨粒だ。
ポッ、ポッ…、サアァァァ…。
大粒ではないが、細かい霧のような雨が降り出した。
この梅雨時期の雨だ。長く降りつづける、すぐには止んでくれない雨。
「はぁ、やっぱり降り出しちゃったか…。」
深弥伽は空を見た。
低い灰色の空からは絶え間なく雨粒が降り注いでいる。
地面に向かって。
地面にいる深弥伽に向かって。
そして、全てを濡らしていく。
「・・・。」
深弥伽は空を見上げたまま動かなかった。
いや、動けなかった。
―僕はいつか、昔にもこうやって、雨に濡れていたような気がする。
それはいつとも知れぬ、記憶の片隅にある、在る事すら、普通なら気付かないような記憶。
ただ無防備に、ただ降りしきる雨に濡らされていくだけ。
―あれは、いつだったのだろう…?
―だた、ひたすら寒く、暗い闇のなかで雨に濡れていた…ような。
しかし、その思考は突如として起こる頭痛に妨げられる。
何故ならそれは、思い出してはいけない記憶。触れてはいけない記憶だから。
深弥伽が深弥伽でいるために触れてはいけない記憶。いまだ記憶の片隅に残る記憶。
かつての彼の、かつての過去…。
「まったくもう、なにやってたのよ、深弥伽ってば。」
あの後、ようやくマナの所に辿り着いた深弥伽は、すっかりずぶ濡れになっていた。
驚いたり、あきれたりするマナの出迎えを受けたが、マナは暖炉に火を起こしてくれた。
今は着替えを済ませ、火の前で温まっていた。
あれがいつの事なのか、本当にあった事なのかすらも分からない。
―だけど、あんな暗い所へ還るのはもう、嫌だ…。
それに例え、光あるこの場所にいたとしても、おそらく、今となっては一人ではいられないだろう。
「僕には、マナ、君が必要だよ…。」
「え?何?何か言った?」
「ううん、何でもないよ。」
不思議そうな顔をするマナを横目に、深弥伽は目を閉じた。
闇の中へ、身を沈める。しかしそれは、先ほどの寒く、孤独な闇ではない。
それは、待つ人のいる光の元へ、いつでも戻れる心地よい、闇の中。
〜七 梅雨霖雨〜 終わり
2002/07/14